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トレーニングなんて自分には関係ない?と思っている貴方にも幽体があります。

人間そして霊魂としての人生に、この幽体は大きく関わっています。

霊的なトレーニングとは、霊能力開発などではありません。

霊的な環境は、とても悪くなっています。

今、弱っている幽体に力を与えるのです。

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霊的なトレーニングというものは、昔は大衆的ではなく神主やお坊さんが行うというイメージであったと思います。

もちろん、神様や仏様を示し一般大衆の先導役となることが修行であったと考えられます。

皆、真面目な志があったからこそ、昔は神社やお寺も高い幽気が降りていたようです。

現代では、大きく変わってしまったように思えます。

神社やお寺に仕える人々の考え、捉え方も変わってしまい、一番大事なことが置き去りにされてしまった感じがします。

本来、伝統ある神社やお寺には高い気が降り得る条件があるのに、とても残念な気がします。

ただ、参拝する側の意識も大事なので、一筋縄では行かないこところがあるのでしょう。

僕自身、以前は宗教に対し偏見を持っていたように思います。

それは布教活動に対する嫌悪感が大きかったからです。
詐欺行為もありました。

そうしたことも、マスコミの取り上げ方によって、一般的な風潮が作り上げられてしまうようです。

実際には、悪いことをしているのは一部であり、真面目に信仰している人達が多いのではないでしょうか。

そうでなければ、皆お縄になっているはずです。

どの宗教が良いとか悪いという判断は人間には難しいのではないかと感じます。

批判するのは簡単です。

しかし、批判するのであれば、本当のことが分かるからこそ出来ることではないでしょうか。

神道や仏教、キリスト教により、高級霊となった霊魂はたくさんいます。

大切なのは、そうした宗教により霊的成長が得られるかです。

もちろん、人間は物質世界において生活を営むことも大事なので、そこに生き方に対する指針も必要でしょう。

多くの方はこうした哲理をもって判断材料にしてしまうと思います。

考えてみれば、伝統が長い宗教であるなら様々な時代背景や文化、環境も違い、教えという点では、異なりを持つことは当然です。

そうした部分が焦点となってしまいますが、本当の価値は肉体を持つ人間には、わかりにくい部分にあったのです。

霊的なトレーニング霊魂学を知ると、イエスキリストもお釈迦様も、人々に訴えかけたかったことは共通していたように感じます。

最近では、物質科学信仰と思えるような考えを持つ方が増えているようですが、霊的なことを真面目に探求しようという思いがあれば、道は開けて行くのではないでしょうか。

あまりにも人間というものは、無知であることに気づかされます。

今、肉体を持ち生きている間に目覚められるかどうかで、将来を分けてしまうのが実状のようです。

生き方は人それぞれで良いと思うのですが、自分が霊的な存在であることに気づいて欲しいのです。

宗教的な姿が本来の人間というものです。

死後、低い世界に入って苦しんでいる人、霊魂達は決して悪人ばかりではないこと知って頂きたいと思います。
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守護霊を交代させるとか変えるというような話を聞きます。

霊魂学でいう守護霊は、タイトル「守護霊はどこ?」でお話したように、通常では交流しにくいような高級霊です。

たとえば、不幸なことが起ったり、自分の思い通りにならないのは、守護霊のせいではないかと考える人もおりますが、それ以前に守護霊自身が担当する人間のことが良くわかっていないのが現状です。

まずは、守護霊と交流を持つために、どうすれば良いのかを考える必要があります。

本来の守護霊に自分を知ってもらうには、幽体という霊的身体を成長させ、オーラを強く発することが望まれます。
そうすれば、守護霊の部下ともいえる補助霊を介さずとも交流が可能となります。

霊魂学における守護霊は生まれてから死ぬまで、そして死後少しの間の面倒を見てくれます。

死後少しの間ということは、上の世界に入れるように、お迎えに来てくれるということです。
すでにあなたが生まれた時に、そこまで責任を持ち担当してくれているのです。

だからこそ、多くの方に本来の守護霊と交流して頂きたいのです。
必ず霊的な進歩向上のための手助けをしてくれます。
それが仕事なのです。

もちろん、物質界の仕事とは異なりますが、高級霊は地上の人間のように気まぐれではありません。信念を持って活動しています。

僕がむかし霊的集会の前夜に、ボソッと「満足したい」とつぶやいたのです。こうしたわずかなつぶやきも逃していませんでした。

集会の日、「昨日思ったことは、必ず叶える」と師が代弁してくれました。

その時もうれしかったのですが、今考えると霊的な意味では、十分満たされたような気がします。
人生における大切なことを、たくさん教えてくれたのです。

しかし、一生修行ですし死後の世界も修行が続きますので、立ち止まるわけには行きません。

霊魂には出来ないことがあります。

それは、高級霊は人間に意思が伝わりにくく、人間は霊的なことがよくわかりません。
こうした霊的なことを多くの方に伝えることが、先に霊的なトレーニングを習った人間の仕事かと思います。

守護霊は一生変わることはありません。

守護霊で手に負えない分野もあるかもしれませんが、そうした時はしっかりとした指導霊を加えてくれます。

僕が情けないので、守護霊が生前武将だった指導霊も僕の指導に参加してくれたようです。
さらに複数の指導霊が僕の人生に関わってくれています。

本来の守護霊と交流できるようになるためにも、霊的なトレーニングを多くの方が行って頂けることを願います。
世の中には霊魂の存在を信じる人や信じない人がいます。

通常、人間というものは、肉体があるため霊的なことはわかりづらくなっています。

また、科学という分野においては、物質主体に考えてしまうために、本来物質ではないものを探求することが困難となっています。

確かに、物質科学という観点で霊魂の実在を証明することはできません。
信じる人と信じない人が存在すること仕方のないことでしょう。

それでも、科学で証明されなくても、真面目に求めれば自分のとっても確信が得られるのではないかと思います。

僕自身、霊が見えたり声が聞こえるわけではありませんが、霊魂の存在を信じているというより、当たり前のように思っています。

もちろん、他人に証明するようなことは出来ませんが、霊魂はいると思っていたからこそ、それをどう自分自身で感じ取ることが出来るのかを追い続けてきたからだと感じます。

ここで安直に霊能力など求めないで頂きたいと思います。

低い霊能力など比較的早く目覚めてしまうのです。
実は霊的障害状態をつくることで、霊が見えたり、声が聞えてきたりします。

それで何が得られるかというと、人間の異常現象と低い霊魂との交流です。

こうなると通常の生活に支障を来たし、死後の世界は暗いものとなってしまいます。

低い霊魂と交流が深まってしまった人を見て来ましたが、そうした霊魂と肉体を共有しているような状態です。
助言も耳に入らなくなり、まるで自分があってないようなものです。

こうした方の将来に不安を感じますが、他人では、もうどうすることも出来ません。

やはり、霊能力を求めるのではなく霊力を得ることが大事です。

不思議な力に魅力を感じるかもしれませんが、人生を棒に振るほどの価値などありません。
死んでから後悔しても手遅れです。

霊的なトレーニングを積めば、他人が何と言おうと霊的な確信が得られるし、霊能力などなくても霊術を行使することも可能です。

自分自身の成長にもつながり、他の人に役立てる力となるはずです。
そうした方が増えれば、今の霊的な環境も改善されるのではないかと思います。
最近では、宗教に対しての嫌悪感から宗教ではないと言い、瞑想を行う人達がいます。

瞑想するとリラクゼーション効果や集中力がアップするそうです。
国内外の有名人なども、瞑想を行って成功を収めたといわれています。

では、宗教的でない瞑想と霊的なトレーニングの瞑想は違うのでしょうか。
細かい点の違いはあるかもしれませんが、行っていることは一緒です。

片や肉体や精神面の為に行い、霊的なトレーニングでは肉体とダブっている幽体という霊的身体の成長を促そうとするものです。

行う人の意識がどうあれ、瞑想法は修行体系から来ているものです。

霊的トレーニングでは、霊的環境や霊魂を前提にして行いますが、単なる瞑想では、そうしたことは全く考えていません。

そのような瞑想には高級霊が関わることはないでしょうが、低い霊魂は、タイトル「気が付けなくて当然!暗躍する邪霊たち」でお話したように、人間のスキを突いてきます。

人間の側が「単なる健康法で行っていますよ」と言っても低い霊魂には関係ありません。
来るなといっても来てしまうくらいの存在です。

霊的トレーニングでは高い幽気を吸収する法であるということは、幽気を吸収しやすい状況といえます。

もしも、人間には見えませんが低級霊が近寄っていたら、低い幽気を吸収しやすくなると考えられますし、他にも特殊な状態をつくり出しているのだから、いたずらするには持って来いということになってしまいます。

現代は霊的環境も悪く、低級霊も活発に活動しています。

人間の目的など関わらず寄って来る危険があります。
心身には良いかもしれませんが、霊的な不調になってしまえば何にもなりません。

どうせ瞑想するなら、正しい霊的トレーニングで瞑想して欲しいと考えてしまいます。
そうすれば霊的不調ではなく幽体という霊的身体にも好影響をもたらしてくれます。
守護霊という言葉はよく聞かれると思いますが、タイトル「守護霊はどこ?」でお話したように、本来の守護霊は霊的レベルが高く、どうしても人間と霊的距離あります。

そのため、担当する人間の様子がわからないようです。

そこで、あの世といわれる幽界で上の方に入った霊魂が、守護霊の指示を受け霊的な進歩向上の手助けをしてくれます。

僕が霊的なことに興味を持った頃は、今のようにインターネットなどなく、書店に置かれている本くらいしか情報源がありませんでした。

宗教などの勧誘は、うるさいくらい来ていましたが、僕には馴染めなくて神や霊魂と通じ合える人を探していたのです。

仕事帰りで時間も早いので、駅前の書店で霊能者関係の本を探していると「大霊力(だいれいりき)」というタイトルが目に入ったのです。

きっと、補助霊が「この本いいよ!」と勧めてくれていたのでしょう。

それから間もなく霊的なトレーニングの会に入り、現在に至っています。

このブログでは、低い霊魂の話が多くなっていますが、高貴な存在に連なる霊魂方も一生懸命に活動されています。

低い霊魂は、人間を操りたいとか仲間に引き込むという、ただ自分の欲求を満たす為に好き勝手なことをしています。

補助霊は上の方の幽界に入ったのだから、あの世に居た方が楽に決まっています。

それでも、自分を犠牲にして地上に生きる人の意思も尊重し、気を配りながら頑張ってくれています。

人に思いが伝わらず落胆したり、時には低級霊と接触することもあるかもしれません。

それでも、ひるまず使命を貫いています。

ご多分に漏れず、僕も含め人間とは自分を守ることばかりに執着しているように思えます。
どうしても他人のことは二の次です。

肉体を持っているせいでしょうか?

僕もそうした立派な霊魂になれるのだろうかと、不安がよぎります。

守護霊ばかりが騒がれている昨今ですが、補助霊という霊魂の存在も日の目を見ても良いと感じます。

たしかに人間には霊魂が見えませんので、ブログで取り上げてみました。

「補助霊がんばれ!」

ご参考になるページをリンクしておきます。
霊的情報館 霊をさぐる 「わるいれいこん??? 3」
かれこれ20年近く昔、友人に師が行う霊査(霊的調査)を勧めました。

その時はピンとこないようでしたが、最近になり「あの先生は当たるよ!」と言っていました。

友人はプライドが高く、強がりなところもあり深くは追及しませんが、霊査で指摘された心理が現れたのではないかと思います。

当たる霊能者はたくさんいることでしょう。

日常的な出来事は、人間に近い霊的レベルの霊魂の方が詳しいかもしれません。

ところが、人間の過去世といった魂というレベルの調査は、低級霊には無理なのです。

あげくの果ては、低級霊がさも当たったかのように働きかけたりしています。

昔から占いは「あたるもはっけ、あたらぬもはっけ」というように、統計学的要素が強いものですが、良く当たる方は、霊能者のように霊魂が手助けしている可能性もあるようです。

この世で暗躍する低い霊魂は、人間を操りたいとか自分の仲間に引き込むことが目的です。

良く当たると評判が立てば、人が大勢訪れてくれるのだから、願ったり叶ったりということになります。

自分の努力を忘れ、目先のご利益ばかり追い求めてしまうと、低い霊魂のえじきになってしまいます。

「じゃぁ、お前だって霊的なトレーニングで死後の幸福を得ようとし、ご利益を求ているだろう」と言われるかもしません。

ただ霊的なトレーニングとは、あの世で上の世界に入ることだけが目的ではありません。

低い世界が異常なだけです。

霊魂として、ごく普通の世界入り、さらなる魂の進歩向上を求めて行くのです。
それが霊魂としての自然な欲求でもあるのです。
昔から宗教において、悪いことをすると地獄に落ち、善いことをすると天国に行けると言われています。
確かに我々人間にとって、理にかなっているように思えます。

ところが、タイトル「気になる霊的な気」で触れたように、地上における善悪で死後の世界が成り立っているのではありません。

もちろん、多くの方が納得の行かないところもあるでしょう。
こうした考えも当然の発想のように思えます。

ただ、これは肉体を持ち物質界に生きる人間にとっての善悪です。

物質界においては、肉体も弱いものですし、資源も限られています。
命は大切にしなければならないし、限りある資源は大事に使わなければなりません。

人の命を奪ったり、他人の物を盗むのは悪いことです。

では、人が死ななかったらどうでしょう。

食べなくても大丈夫なら、無理に働く必要もありません。
必要なものは、ドラえもんに頼まなくても、自分で思った瞬間現れます。

電車や飛行機に乗らなくても、瞬間移動も可能です。
疲れることもないし、お金の価値もありません。

殺人は起きないし、取った取られたと大騒ぎする必要もなく、好きな時に好きな事をしていれば良いのがあの世です。

根本的な環境、身体が違うのです。

となれば、物質界における常識は全く通用しないことになってしまいます。

物質の世界とあの世といわれる幽界において共通しているのが、人間には見えない霊的作用や影響です。

肉体とダブっている幽体は、食べたりしなくても生き続けています。

しかし、非常に未熟でもあり、他者からの幽気というものに、知らないうちに影響を受けています。

そのまま放置してしまうことで、馴染みやすい世界にしか入れないのです。
そこには、とても恐ろしい先住民の霊魂がいるのです。

そうした低い世界に入りたくないのであれば、地上の善悪は別と考え、幽体に力をつけて健全にしておくことで、幽体に相応しい世界に行くことができます。

この世の財産、知識や名声もあの世では通用しません。

唯一あの世に持ち越されるものが、今ある肉体とダブった幽体です。

ご参考になるページをリンクしておきます。
霊的情報館 霊をさぐる 「わるいれいこん???-1」
昔から生霊という、生きている人間の霊が体から抜け出し、恨みや憎しみを持った相手にとりついたり、災いをもたらすと考えられています。

霊魂学的に考えると、人間のダブった霊的身体である幽体が離脱し、他者に悪影響を及ぼす行動をとることになります。

確かに、幽体離脱は決して出来ないことではありませんが、一時ならまだしも、常時離脱していたら、本人だって日常生活は送れません。

人間にいたずらをするような低い霊魂も幽体で活動していますが、直接物質的な影響を及ぼすことは難しく、間気という物質に作用する霊的な気を使かって、僅かながら霊的現象を起こすにとどまります。

こうしたテクニックを幽体離脱している幽体が行えるか疑問が残りますし、あくまで幽体であるのだから、物質に作用することは難しいことです。

また、相手も幽視という特殊能力を持っていなければ、幽体という存在を視覚することはできません。

生霊は幽体と考えれば存在し得えますが、幽体が肉体から離れて相手に悪影響を及ぼすのではなく、人の発する念により、悪い影響が起きているのであれば筋が通ります。

タイトル「念の影響」で触れましたが、人間の想いは霊的なエネルギーを持っています。
強い念を発すると、物質とは違い、思った瞬間に相手に突き刺さります。

こうした念により幽体が損傷して霊的不調を起こし、肉体に影響を及ぼすことも考えられます。
低い霊魂が加担すれば、災いを与えることもありますし、さらに強力なものとなったりします。

このような場合は、対策として除霊があげられますが、低い霊魂を排除することは可能かもしれません。

ところが、人の発する念は防ぎようがありません。恨まれる限り続いてしまいます。
やはり人間同士の和解が必要になります。

ただ、相手と仲直りできたからといって、幽体は改善されません。
これが現実です。

霊術などにより修復しないと、オーラも出なくなって低い霊魂の目に止まりやすくなってしまいます。

世の中、理不尽な理由で恨まれてしまうこともしばしばです。
たとえ濡れ衣であったとしても同様なことが起ります。

やはり、霊的なトレーニングにより幽体を強化することが、何よりの防御策ではないかと思います。

ご参考になるページをリンクしておきます。
霊的情報館 霊をさぐる  霊的向上者に対する念
僕はギャンブルはやらないのですが、友人が競艇場に連れて行って欲しいと言われ、車で連れていってあげました。

レースが始まっていない早い時間だったので、ひと気もまばらでした。

時間もあったので、散歩がてらレースの行われる静かな川辺に出てみたところ、後ろにそり立つ観客席には人はいないのですが、怒号が聞こえるかのような人間の欲望と失墜が渦巻いているかのような感じを受けました。

こうした場所には、特有の幽気がたまっているようです。

ある時、友人の付き合いで、精神科の病院にお見舞いに行きました。

そんなに古びた病院ではなく、比較的きれいな感じでしたが、何と病院内が煙っているような圧迫を感じるような状態です。

こうした病院に勤めている人は、毎日こんな環境で仕事をしなければならないのだから大変だなと思いました。

霊的なトレーニングを行っていなければ、霊的な不調になってしまうのではないかと感じます。

たまに、他人の家や車に入った時、ムッとするようなことがあります。幽気というものは、土地や家にとどまっていたり、物品などにも付着します。

そうした低い幽気があると、低い霊魂が寄って来てしまうことさえあります。

そのような場合は、祓いというものが有効です。

ただ、本格的な祓いになると、霊的なトレーニングを積んだ霊力のある方でないと効果は見込めません。

僕は普通の一般人ですが、霊的なトレーニングを行い、祓い講習を受けてからは、引っ越しの時や、他人の使用した中古品を買った場合などにも行えます。

また友人から祓いを頼まれますが、「なんだかスッキリした」と言って、とても喜ばれています。
これは20年以上前になりますが、神伝禊法の初伝合宿の帰りのことです。

地元の駅の階段を下りてロータリーに出たのですが、何とも言えない嫌な感覚を感じたのです。

その日は天気も良く、普段のように何の変哲もない風景でした。

考えてみれば神伝禊法の研修は三泊四日行いますので、その間、高い霊的空間で過ごすことになります。

そうした状態から、現実に引き戻されてしまったような霊的ギャップを感じたのだと思います。

霊的トレーニングを行っている方は、こうした経験はお持ちだと思います。

幽体という霊的身体が高い幽気に馴染むようになるので、低い幽気に違和感を覚えるのでしょう。

昔、結婚式場を探していた時、簡単に済ませようと思い、教会式の式場を回っていました。

ある式場で、教会の扉の前に立った瞬間、とても嫌な感覚で中に入る気もしませんでした。

係りの人によると、普段は信者の方が礼拝に使っていると、まるで格式があるように話していました。

何でこんなになってしまうのか、とても残念に思いました。

そして、別のいい加減そうな式場で、塾の英語教師のような牧師さんに見守られ、滞りなく結婚式を済ませました。

低い幽気はどこにでもあるので、あまり敏感になり過ぎると社会生活に支障をきたしてしまいます。

この世において低い幽気に接したり、他人からを受けてしまうことは日常的なことなので、霊的トレーニングを続けることが大切なように思います。
タイトル「飼っているペットは死んだらどうなる」で触れましたが、動物も霊的生命体であり幽体という身体があります。
長く犬を飼い続けていると、不思議なこともあります。

家の中で犬を自由にさせているのですが、ある日ベッドの上に黄色いシミがありました。
それを叱ると、直感的にですが、犬が否定しているように感じたのです。

その犬は、毛で目が隠れてしまうので目からは気持ちは読み取れませんし、しぐさからではなかったと思います。

よくよく考えてみましたら、大型犬ですのでオシッコにしてはシミが小さかったので、どうも吐いてしまったようです。

僕はドリトル先生ではないので、動物と会話できるわけでもありませんが、時々、動物も想念を発しているのではないかと感じることはあります。

以前、山に仕事で出かけ、手を伸ばした先にヘビが木の枝にからみ付いていたのです。

びっくりして手を引込めましたが、そのヘビは僕を怖がる様子もなく笑っているようでした。

50才を過ぎたいいオッサンが、何バカなことを言っていると否定される方も多いと思いますが、自分の中では忘れることのない印象に残る体験でした。

日頃、僕は植物を扱う仕事をしています。

さすがに動物のような体験はありませんが、植物にも相性があるように思えるのです。

同じ種類の植物同士を密植させても、すくすく伸びるのですが、異なる種類の植物を側に植えると、いじけて避けるように縮こまってしまう植物もあります。

別に日当たりが悪くなるわけでもなく、南側に植えているにも関わらずです。

また、つる性の植物などは、まるで目がついているように絡みつくものを探しているように伸びて行きます。

植物というものも、よく観察していると意識を持っているのではないかと感じさせてくれます。

霊魂学の見解では、植物も幽体があり、意識を持っているようです。

もちろん動物とは違い、意識を表現する手段は限られた身体ですが、よく植物に音楽を聞かせたり、人間が話かけていると、より成長するようなことも聞きます。

それでも、人間は動物や植物を殺して生きてゆかねばなりません。

そうした動植物の犠牲の上で自分の人生が成り立っていることも忘れてはならないことでしょう。

宗教などでは、そうした食べ物に感謝すること重んじますが、霊魂学では同じ霊的生命体として、そうした犠牲を自分成長につなげることが大切のようです。
幽界という霊的世界は、タイトル「気になる霊的な気」でお話したように、高い世界と低い世界に分かれています。

低い世界は、とても辛い世界のようですが、比較的上の方に入れた霊魂はどのような霊魂なのでしょうか。

我々人間は、肉体で生活していますので、肉体を維持するための欲求があります。

むしろ当然といえますが、そうしたものに振り回されてしまう傾向にあります。

今肉体とダブっている死後使用する身体である幽体は、肉体とは異なり、食べることも寝る必要もないようです。

そうなると、生活のためお金を稼ぐこともないし、好きな時に好きなことをしていれば良いことになります。

霊的世界は、幽体という身体の質や状態で住むべき世界が決まります。

高い環境に馴染める身体であれば、その身体に応じた意識となるので、当然低い世界の住人とは意識も違います。

低い世界に入ってしまうと、なぜ辛いかといえば、学校や会社という集団の中で、いじめが起きるように、この世の人間関係ならぬ霊魂関係があるため、弱い者はとことんいじめられ、強い霊魂の命令は従わざるを得ないのです。

これとは対照的に、高い環境に応じた意識を持つ霊魂は、新参者である弱い者をいたわる気持ちを持っているようです。

古今東西、宗教における死後の世界観は、神や仏から遠い世界は痛みや苦しみの絶えない世界で、近づくことで極楽や天国と呼ばれています。

神や仏に近づくには、高貴な存在から力を得ることでしかないからです。

その方策が、仏教でありキリスト教や諸々の宗教であったのです。

こうして宗教には高貴な存在を欠かすことはできません。

宗教の意味や価値が様々な形で取り沙汰されていますが、そうした高貴な存在からの力を得ることができるかということが重要になります。

ご参考になるページをリンクしておきます。

霊的情報館 霊をさぐる 「霊魂からの証言 死後不幸にならずにすんだ人」
この世は、まるで型にはめられたような生活をしなければなりません。

子供の頃から勉強を強いられ、やっと学校を卒業して自由になれるのかと思うと、今度は仕事をする必要があります。

会社に入れば嫌な上司に逆らうことも出来ず、言いたいことも言えず我慢して、お客さんには別におもしろいわけでもないのに笑顔でペコペコ頭を下げて、家に帰ればぐったりです。

自営業も大変です。
景気が悪くなれば、仕事は少なくなり、そのうえ単価は安くされ、借金も増えてしまい、何とかやり繰りしているという方も多いのではないでしょうか。

女性も正社員で雇ってもらえないし、子供を持てばあらぬ出費がかさむし、ちょこっとパートに出ても時給は安く家事に追われ、やっと一息ついて時計を見れば、夜も遅く明日の為に睡眠も取らねばなりません。

それに病気やケガも心配です。

自分だけではなく、家族のことも気がかりです。

それは、全て肉体を持っているからです。お金がなければ食べられないし、無理して働けば体を壊してしまいます。
とても厄介な身体です。

同じような毎日の繰り返しに嫌気もさしますが、ゆっくりできると思ったら死が目前です。

肉体の死を哀れんでいるのは、我々だけのようです。

確かに身近な人がいなくなるのは、辛いことです。
人間にとって死とは一大事です。

そうした我々も、もともと霊魂で人に生まれ、肉体を失えば、また霊魂になります。

肉体の死とは一通過点です。

肉体を持って生きている時間など、永遠と続くあの世の生活に比べれば、ほんの少しのようです。

もちろん、僕だって死を体験したことがないので、わかったようなことを言うつもりもないですし、痛いのは嫌ですし、なるべく辛いことは避けたいと思っています。

こうして考えると、もっと霊魂やあの世について真面目に語られて良いと思います。

この世で苦労して、さらにあの世でも苦しむのでは散々です。

わからないから無いと決めつけるのではなく、全ての人が魂も霊的身体を持っているのだから、霊的存在であるという実感は得られると思うのです。

もっと柔軟に捉えてもらえれば、だんだんと真実が明かされるのではないでしょうか。
プロフィール

イクラマン

Author:イクラマン
「契山館」という小さな会で昭和63年から霊魂学、霊的修行法を学んでおります。
このブログの内容は、修行中の未熟な会員によるものです。未熟さゆえの間違いや解釈も含まれますので、どうかご理解下さい。

◆不許無断複写転載◆



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