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トレーニングなんて自分には関係ない?と思っている貴方にも幽体があります。

人間そして霊魂としての人生に、この幽体は大きく関わっています。

霊的なトレーニングとは、霊能力開発などではありません。

霊的な環境は、とても悪くなっています。

今、弱っている幽体に力を与えるのです。

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2013.10.31
霊魂学においては、心の成長が無意味であると言ってわけではありません。

この辺は誤解のないようにして頂きたいと思います。

社会における人間関係などは、心の成長が大きく影響を与えます。
大人になって、いつまでも子供のような心では、社会から弾かれてしまいます。

霊魂学では、心の変化や成長が必ずしも霊的成長につながるのではないと、考えているのです。

人は一人では生きて行けないのだから他者に対する思いやりも助け合いも大事だし必要です。

それを霊的進歩だと考えることが間違いなのです。

日々の生活の中で良いことをすれば、あの世の上の方に入るのではなく、法則に従って、おのずと住む世界が決まってしまうということです。

もちろん、悪いことをすれば他者からの念により幽体が損傷してしまうこともあります。
そうなると低い世界に入りやすくなってしまうのです。

ただ、人間として生きているうちに、それを修復して幽体が良い状態になれば、上の世界に入る条件が整うのです。

「そんなのどう考えたっておかしいよ!」とお思いなるかも知れませんが、それが法則なのですから仕方ありません。

それでは見方を変えると、地上に生まれることにより誰しも大なり小なり、今も過去の人生においても、悪いことをしているのだから皆地獄に一直線となってしまいます。

本当の意味での善人は、生まれて来ないのです。

未熟な部分あるからこそ、人は生まれてきてしまうのです。

自分が善人だと思っている人は、自分を知ろうとしない省みない人ではないでしょうか。

このような状況ではあまりにもかわいそうだから、更生する機会も与えようということで、高貴な存在は霊的なトレーニングを降ろしてくれたし高級霊は力を流してくれるのだと思います。
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2013.10.31
心について霊魂は「心など汚くても、とにかく力をつけよ。心などあの世に行ってからでも何とかなる」と言います。

まず優先させるべきことが、幽体に力を持たせることだったのです。
死後の世界は幽体の質や状態で、行くべき世界が決まります。

心がきれいだとか汚いというは、何を基準にするのか、見方によっても大きく変わります。
良くも悪くも、思い込みであったりもします。

たとえ、心がきれいであっても、死後の世界が暗いものとなってしまっては困ります。
契山館霊的なトレーニングの会では、日常生活における戒律というものがありません。
生き方を問題にするのではなく、霊的な進歩向上を考えるからです。

生き方が大切というのなら、生まれる時代、地域や環境、教育や文化そうした異なる前提を踏まえての生き方を模索しなければならないのに、一律に「こう生きましょう」と簡単には言えないものです。

『教え』も昔の人にはそれがありがたかったし、より良い社会につながったことでしょう。
時代が過ぎ、現代のように様々なものが変わってしまった状況において通用しないのであれば、決して真理とはいえるものではありません。

心イコール表面意識とするなら、霊的修行者においては、その成長も必要なことだと思います。
潜在意識と呼はれるような深い意識、その根本を変え、それを表面意識が表現しようとするなら、それに伴う成長も必要になるのではないかと思います。
2013.10.30
僕が霊的なトレーニングを始めた頃、心を変えることが重要であると考えていたのです。

一般的にも人間の内面的な部分、それが心だからです。

ところが霊魂学は心に触れるどころか「魂からみれば心など、ほんの一部分に過ぎない」というのです。
高級霊は「心など汚くても、力をつけよ」などというのです。

自分を変えようと思って来たのに、何が何だかよくわからなかったのです。

心はそのままで成長できるのかと?

今思えば、とても単純なことでした。

人間の心は変わりやすいし人間の本質を表現するとは言い難いものなのです。

人間は肉体を持ち、脳を使っています。
心は脳に刺激を与えると変化しますし、暑い寒い痛いかゆい、そうしたことでも変化します。

年をとると肉体の機能の働きも悪くなり、認知症になると心が低くなるのかいうと、それは脳の働きや障害の問題でしかないのです。

あの世に入れば、幽体の存在になりますので、肉体の脳とは無関係です。
幽体の脳のようなものがあるでしょうし、心も存在します。

ただ、幽体の質や状態は人により様々ですから、その身体に相応しい世界に入ります。

宗教はよく心を変えましょうといいます。

しかし、人間は愛や平和を何千年と唱えていても、争いは絶えないし差別も消えません。

聞き心地は良いけれども、悪い悪いと言いながら改善される気配もありません。
これは人が争いや差別する性質をもともと持っているからだと考えます。

人間は自己中心的で自分がいちばん大事で、気まぐれであるということを意識せずに理想論ばかり並べても解決できない問題だと思います。

もっと人間を分析し、目先の幸福ばかり求めるのではなく人間を不幸にさせてしまう原因を追究すべきではなかと感じます。

こうしたことがなされなければ、お互い足の引っ張り合いでしかありません。
もちろん、倫理や道徳を考えることも大事です。
世の中には霊的世界、霊魂についての主義主張がたくさん存在します。

何が正しくてどれが間違いであるのか、その判断が難しいと思います。
特に霊的分野というものは、真偽の確証を得ることが困難です。

現代はマスコミの影響が大きく、テレビなどに出演する有名な方の発言が力を持つようです。

霊的なことにとどまらず、医学や科学などにおいても仮説や一部好影響があったという段階にもかかわらず、確信を得ているような主張をされている方がいます。

我々素人は、肩書を信頼しているわけですから、責任を持った発言が求められます。

それでも、資格や専門分野の勉強や研究をされている方ならまだ安心なのですが、霊的な分野となると素人が突然霊能者や霊術家になることも可能といえます。

これが一思想にとどまらず、健康や医療という分野にまで踏み込んでいるのも現実ではないかと思います。

正しい知識や認識もないのに、人間にとって大事な『気』というものを安易に操作しているのが実状のようです。

霊魂学でいう幽気間気の違い性質や役割、肉体と霊的身体の相関関係、そうしたことを考えず、まるで気の力は万能であるかのような表現はおかしいと思います。

オーラ守護霊も単なる流行語となり訳がわからなくなっているし、気の技も流行によって横文字を使ってみたり、適当に用語を組み合せたり、看板を変えただけで、行っていることは昔とちっとも変っていないのです。

こうした中、霊魂学は真面目に霊的分野の追究、検証を行っています。

過去の文献を調べたりするのでなく、直接高級霊に聞くという手法を用いますので、日々進化し続けております。

ご参考になるページです。
霊的情報館 霊をさぐる 「霊魂学の特徴2」
かれこれ25年くらい前になりますが、水波一郎著「大霊力」を読んで入会したのです。当時5才だったので、今は30才になります。(これは嘘です)

確かに疑ってはおりませんでしたが、盲信とも違っていたと思います。

集会や研修に参加し不思議なこともありました。

自分の変化というものはわかりにくいもので、長い月日が経つと昔の自分とは大きく変わったなと感じます。

老けたというのではく、内面的なものです。

本物に出会えて良かったと思っているのです。
それで、多くの人に体感して頂きたいと願い細々とHPやらブログをやっています。

今でも霊が見えるとか聞こえるという霊能力はありませんが、指導霊が実在し、僕の思いに働いてくれるという、ありがたい実感はあります。

以前、遠方の方から遠隔で霊術の依頼があったのです。
遠隔なんて習ってもいないし、信頼されているから依頼されるのだと思うと断るわけにも行かず、とりあえず行ってみました。

目の前に依頼者がいれば何らかの手応えもあるかと思いますが、バットを素振りしているような感じなので、自信もなく2回行ってみたのです。

そして、この次からこうした霊術は断ろうと思っていた矢先、変化が生じたようでお礼の連絡を頂いたのです。うれしいやら、戸惑いやら複雑な心境でした。

料金は僕がもらってしまうのに、どなたかは存じませぬが、指導の霊魂に心から感謝しました。
霊魂学では幽体離脱や霊能力開発の悪影響を提唱しています。
もちろん否定しているのではく、危険な行為であると考えています。

肉体と幽体は「しっかり密着していることが大事です」と言っています。
幽体がズレる外れるというのは、霊的な病気や障害でしかないのです。

たとえ幽体離脱が可能になったところで、霊的なことに精通している人から見れば、病気を自慢しているようなもので、世間一般には、はじめから認めようともしないし変人扱いされ笑い者になるだけです。

僕もこうして今時、人間は霊魂であるなどと主張すれば、変わり者扱いされるかもしれませんが、それでも大切なことで、理解してくれる人が少なからずいると思うからです。

昔であれば、修行している人は有難がられたようですが、現在は逆に、うさん臭く思われてしまうようです。

それでも何が変わったかといえば、人々の考えや世の中が変化しただけで、霊的には何も変わっていないのです。

「人を殺すと地獄に落ちますよ」というのも、殺人は倫理的に悪いことなのですが、霊的根拠もあります。

殺す行為というよりも、殺された本人やその家族等からものすごく強い念が来ます。
それにより幽体が損傷してしまい、地獄とまでは言わないものの、あの世の低い世界に入ってしまうのです。
もちろん、霊的カルマも深くしてしまうことでしょう。

あくまで、これも一つの事例であって、現代のように人間関係も複雑で霊的環境も悪く、ことごとく競争する社会においては、より幽体に悪影響を及ぼす要因が増えているのです。

自分は悪いことはしていないから安心だと楽観できないような状況です。

幽体離脱から話がずれてしまいましたが、幽体離脱を試みようとする行為は、霊的に悪影響を与えるだけしかありません。

亡くなられた方は皆、幽体離脱してあの世に行っています。
幽体離脱行為イコール死であるとまでは言いませんが、いずれ幽体離脱する時が来ますし、今無理に人生を棒に振ってしまうことはないと思っているのです。

ご参考になるページをリンクしておきます。
霊的情報館 霊をさぐる  霊魂学 死後の世界や霊魂について知る方法
  
霊的情報館 霊をさぐる 霊魂学 超能力、霊能力の開発の危険性     
人間は霊的なことに盲目です。わからないことばかりです。

それは肉体を持ち生活しているからといえます。
霊的世界のことは、人間がどう頭をひねっても答えを導き出せないのです。

わからないことは、あれこれ考えるのはやめしょう。霊的なことはれいこんに聞いてみよう!なのです。
では、肉体を捨て霊魂になると様々なことがわかり得るかといえば、そうでもなさそうです。

もちろん、肉体を失い幽体で生活しているので、肉体との生活の違いや身の回りのことは実感として理解できると思いますが、霊的世界においては住む所が限定されてしまい、まわりも同じような霊魂ばかりとなってしまいます。

地上でフラフラしている霊魂など、もってのほかです。
未熟な霊魂からの通信は、あまり参考にならないのです。

幽界でも上の世界に入れば、さらに進歩し向上する霊魂もおりますので、こうした霊魂は当然意識も変化しますし、勉強や経験を積むことで、知識や理解を深めています。

進歩した霊魂はあの世で修行していたのです。

このように霊魂も様々で、実際に霊媒現象による霊魂からの通信であっても、努力や勉強をしている霊魂もいれば遊び回っている霊魂もいるので、同じ内容に触れても異なる見解になってしまうのです。

人間というものは、霊的には未熟で通信相手の霊魂も限られてしまいます。
西洋における霊魂からの通信も幽体の霊魂が限界だったのです。

霊魂学でいう守護霊という存在は高級霊だと言っておりますが、更にその上の霊体の霊魂が存在します。

霊的に高度な内容になると幽体の霊魂では分かり得ないことがたくさんあるのです。

ここで霊的なトレーニングが力を発揮するのです。

幽体の成長はもちろん霊体という高貴な身体まで成長させることが出来るのです。
これにより霊体の霊魂の通信が可能となるのです。

日本には古代よりこうした修行法、トレーニングがあり、高度な思想を降ろしていたと考えられます。

近年、西洋の霊界通信というものに興味を持たれる方も多いと思いますが、この日本には目を向けてみてはいかがでしょうか。

さらに詳しく解説しているページをリンクしておきます。
霊的情報館 霊をさぐる 「霊媒」
現代はインターネットが普及し、調べたいことがあれば沢山の情報が出て来るし、質問をすれば沢山の人から回答が返ってくるといった、とても便利な時代になりました。

ただ、これだけ情報があふれてしまうと、正しい情報を識別するのが返って難しくなってしまいます。

特に霊的、宗教的世界は検証が難しいこともあり、信じるとか信じないという個人の判断になってしまいます。

宗教というものを考える時、その基準は『教え』というもので判断すると思うのです。

なにしろ前面に出てくるのは、こうしたものです。

ある人が「私は宗教が嫌いだけれども、聖書の哲理にうなづけるところがある」と言っていました。

確かに教えに含まれる哲理というものは、人生の指針にもなることでしょう。

それは、目の前にある生き方の問題や方策で、宗教の大事なところが抜け落ちてしまっているような感じがします。

この世で生きる為には、社会の安定を前提とした生き方も、まとまりも必要です。

時代が変われば、教えの価値も薄れてしまう部分もあるでしょう。

それでも宗教というものは、道徳的なことを更に飛び越え、人間の本質に迫ろうとするものだと思うのです。

信仰とは神様や仏様に御力を頂き、連なるということを意味します。

残念なことに、神や仏といった存在と人間には距離があり、それを埋めるパイプ役が霊魂であるのに、霊魂の存在を認めない宗教者もいますし、信仰心などまるでないのに、霊的な力があるという人まで現れてしまいます。

御力とは高い気を指し、それは高級な霊魂を通じ降りて来るものであって、そうした存在を無視して得ることはできないものです。

宗教を求める理由は、はたから見れば心の弱さや依存心であるとか、現実逃避だとか言われるかもしれません。

人間は肉体のみで生きているのではなく、霊的な存在でもあることを考えると、肉体の欲求と同じように霊的な欲求があってもおかしくないし、霊的な感性が存在することも自然なことだと思います。

大昔は、皆神様を信仰していて、その意味や価値をしっかり理解していたと思えます。

やがて現代のような物質主義による社会や教育が、感性をつぶしているように感じます。

本当の意味での宗教の価値は、神や仏の御力を受けることが出来るか。

それが一番大事で必要なものだったのです。

人の生き方についての様々な指針や社会安定のための倫理も大事ですが、今、失われかけているのが信仰心に基づく受け皿です。

いつの時代においても人が霊的生命体である限り、魂のとしての人間の欲求を満たしてくれるものが必要なのではないかと思います。
守護霊との交流は、その姿が見えたり声が聞こえるようなものではありません。

本来、肉体の目は物質を見るようになっていますし、耳も同様です。

ですから、霊能力的な交流を求めようとするのは間違いです。
守護霊といった高級霊は、脳を操るといった危険な行為はしないのです。

例えば、問題のある霊的カルマが浮いてきたとします。

目の前の道が左右に分かれていて、どちらか行こうか迷っています。

迷っているのだけれども、どうしても左に行こうとしてしまいます。
霊的カルマとはこういったものなのです。

この時、守護霊は左に行ってしまうと人生を間違えてしまうことを考え、「右に行け」と霊感を送ってくれるのです。

未熟な霊魂は、逆に強く左に行くことを願うかもしれません。

守護霊の役目は、目先の欲求を叶えるためでなく、常に担当する人の霊的な進歩向上に向いています。

すでにある程度の霊的カルマは把握しているようです。

もちろん、この世を生きるためには、仕事やお金がなければ生きて行けないことも分かっています。

守護霊自身も人間として生き、苦悩し成長した身近で一番頼りになる大先輩なのです。

突然目の前に現れたり、耳元でささやいたりするのは本来の守護霊ではないと思って下さい。
その存在は心の奥で感じ得るものです。

最近では、未熟な霊魂を守護霊と呼んだり、さらに唯物論的な人も増え、出番がなくなってしまったようにも思えます。

目先のご利益や霊能力などを求めるのでなく、自分の霊的な進歩向上を願う時、その思いは必ず受け止めてくれることでしょう。
霊魂と物質の世界に生きる人間の大きな違いは、我々は肉体という身体に入り込んでいることです。

肉体を持っていると霊的ことがよくわかりません。
それは肉体が物質の世界に適した身体だからです。

この肉体にとらわれてしまうと人間の本質が見えなくなってしまうのです。

脳は確かに複雑かつ精巧で肉体の中枢です。
人の心に対する影響も大きいでしょう。

しかし、それは肉体の中枢でしかなく、人間の実質に迫るものではないのです。

脳の科学も車の運転席を調べることに夢中で、ドライバーの存在をまるで考えていないようにも思えます。

肉体が生まれる以前にすでに幽体があり、そしてその一部が再生し人間が生まれ、肉体を失うと幽体であの世の生活がはじまります。

こうしたことを考えると肉体は一時的な身体でしかないことがわかります。

もちろん、幽体もあくまで身体でしかないのです。

難しい話を好まれる方は「霊魂学を知るために」で続きを読んで頂きたいと思います。

人間はもともと幽界で生きる霊魂だったのです。

ことさら不自由のない田舎に住んでいた純朴な若者が、都会に憧れ村を飛び出し、都会で傷つき苦しみ変わり果てた姿で帰って行くようなものです。

霊的な世界は自由な世界で肉体に拘束されることなどありません。
働くことも寝ることも食べる必要もなく、死別することもないのです。本来はこうした世界です。

ところが、霊魂が人に生まれてしまうと、どうでしょう。

常に競争し奪い合い、差別し憎み憎まれ、そして念により傷つき傷つけられ、お互い幽体は損傷し心理を歪めてしまうのです。

霊的世界では起こらならないようなことが必然的に起きてしまうのが、この地上といえます。

その経験や記憶を有してもともとの霊魂の姿と別人のようになって、あの世に戻って行くのです。

そして、物質世界の延長戦を繰り広げてしまうのです。

「じゃぁ、生まれなきゃいいじゃん!」そうなんです。

でも、どんどん生まれて来てしまうのです。
霊的カルマを抱えた幽体の一部が地上に誕生し、その霊的カルマに影響され更に深い霊的カルマとなってしまい、そして不幸を嘆くのです。

この負の連鎖を断ち切る必要があるのです。

生まれて来るのが悪いのではなく、生まれて来ることにより霊的成長につなげれば良いのです。それを霊的トレーニングが可能にします。
霊的なトレーニングは自分の霊的な進歩向上の為に行いますが、それにとどまるものではありません。

今、このブログを読んでいるあなたが霊的成長を遂げることで、その霊的影響は図り知れないのです。

霊的トレーニングを積めば、様々な霊術も可能となります。

もちろん、資格を満たした上で霊術の講習を受ける必要がありますが、家族や友人等に祓いや霊的治療といったものが行えるようになるのです。

影響を与えるのは、人間に限定されたものではありません。

例えば、あなたの先祖がどうした訳か地上に戻って来て、自分の子孫が霊的に成長しているのを見たならば、心を入れ替えるきっかけとなるかもしれません。

また、この地上には道を間違えた霊魂がたくさんいますので、目覚める霊魂もいることでしょう。

高級霊とされる守護霊なども、担当する人間が霊的成長を遂げることで、同時に進歩できるのです。

そして幽界で生活している自分の過去世本人にも影響を及ぼします。

さらに、霊的カルマというものをそれぞれの人が持っています。
その集積が社会を動かしています。

こうした大きな霊的カルマでさえ、数が増せば変化させることも可能ではないかと思います。

このように、一人の人間が霊的成長することで、多くの人や霊魂にも影響が及ぶのです。
このブログで霊力と呼んでいるものと少し異なりますが、霊的な影響を相手に与えたり受けたりすることがあるのです。
それは人間が幽体という霊的身体をダブらせているからです。

想念とは心に浮かぶ考えのことですが、こうした思いが霊的な力を持つのです。

念の力で物を動かすという方もおりますが、幽体から発する念は幽質なので、物質に作用するものではありません。

強く念じることにより、間気というものが流出し影響を与えることが可能になるのです。

もちろん、こんな実験はお勧めしません。

スプーンも手で曲げれば良いし、物を移動させるのも手を使う方が簡単です。

間気は肉体と幽体を接着させる役目を持っているので無駄づかいは禁物です。

人が強い恨みや憎しみを抱く時、その念が相手にダメージを与えてしまうのです。
もちろん、幽質なので肉体には直接影響しませんが、幽体が傷ついているのです。

後にその影響が肉体に現れる場合も考えらえます。

人間関係において、お互い気づかない所でこうしたことが起きているのです。

それでは、その傷が優しい思いをかけることで修復されるかというとそうでもありません。

きっかけは些細なことであっても、霊的カルマと相まって強力になってしまうこともあるでしょう。

こうした悪循環を繰り返してしまうのが現実のようです。

人間同士お互い感情がありますから、怒るなといわれても無理です。

通常、怒るとは悪感情のように捉えらえるかもしれませんが、そうでもないのです。

相手が本当に悪いことをしていたら真剣に怒って止めさせなければいけません。
お釈迦様が怒っても、こうした悪影響は起きないのです。

「お互い霊的に成長すれば良いのです」などと言うのも非現実的なので、自分が霊的に成長し強い感情を出しても悪影響を及ぼさない、そして念にも勝る幽体となることが肝心かと思われます。
僕も霊的なことに強く関心を持ち始めた頃、何か実感を得たいという気持ちもありましたので、霊能力に興味を持つ気持ちも理解できます。

いつの時代も霊能力がいとも簡単に身に付くようなことを言う人がいます。

タイトル「霊感ないんです?」で「霊的な力とは、肉体の健康や肉体を正常に機能させる力でもあるのです」と言いましたが、霊力がある人は、肉体を正しく機能させている方です。

つまり霊力が弱ると霊能力が現れやすくなるのです。霊力と霊能力を混同されているかも知れませんが、霊能力はあくまで技術的なことを指しています。

霊的状態が悪くなると、霊魂が干渉しやすい状態を作ってしまうのです。

霊魂学では間気と呼んでいる気がありますが、その間気が不足すると肉体と幽体の密着が弱まってしまいます。
こうした時に霊的現象が起こりうるのです。

このような状態では正しい霊的なトレーニングなど行っているとは考えられませんので、寄って来たのは未熟な霊魂です。

いかに神や仏を名乗り立派なご託を並べていても、背後にいるのはそれなりの霊魂でしかないのです。

霊魂は人間のように寝たりしませんので、四六時中干渉してくればこの身が持ちません。

ケガをするのは一瞬でも、治すことは大変なのです。

まずは、正しい霊的トレーニングを積み重ねてから技術を身に着けることが望まれます。
霊的なトレーニングをお勧めする理由は、深層心理とか潜在意識と呼ばれている過去世の記憶、心情を和らげ改善することにより、人生をより良い方向に導くとともに、魂という大きな視点での自分を成長させることにあります。

次に幽体という霊的身体を強化、発達させることにより、死後不幸にならないように備えておこうというものです。

現代人は生活を維持するだけでも大変で、慌ただしい日常を送るだけで精一杯、死後のことなど縁起でもないし、あの世に行ってからでも何とかなるだろうというお考えもあるかもしれません。

それでも死後の世界は、霊的身体の質や状態により分かれてしまいます。

これは、えん魔様が審判を下すようなものでなく、植物でも種類によって生きやすい場所や条件が限られるように、自分に相応しい、馴染みやすい所に行くしかないのです。

低い世界に入ってしまえば、なかなか上の世界に上がってくることが難しいようです。

まわりは同じような霊魂ばかりで、天使や菩薩はどこにもいないし守護霊のような霊魂は遠い世界で、新参者はいじめられ逃げ場さえない状況になります。後悔してもどうにもならないようです。

だからこそ、霊的世界を理解していたイエスキリストは自分の人生を犠牲にしてまで、真の幸福に導くために人々に強く訴えかけたのでしょう。

この物質界に生まれるということは大きなチャンスなのです。

地上でつくった辛い苦しみや傷は、この世で癒すしかありませんし、あの世では高級霊は遠い存在であっても、今なら接点を見出すことは容易なのです。
多くの高級霊が手を差し延べようと待っています。
霊魂学においては、生まれ変わりという表現は使用していません。

あの世の霊魂が地上にそのまま生まれ変わったり、人が死を迎え、すぐに別の人に生まれ変わることはないようです。

あの世の霊魂はそのまま存在し、幽体という霊的身体の一部が、肉体の誕生と同時に入ってくるようです。

霊魂学では過去の人生を過去世と言っておりますが、前世という用語を用いない理由は、何度もこの地上に生まれ複数回あるので、一つ前の人生だけが今回の人生に影響を与えるとは限らないからです。

こうした幽体の意識というのは深い意識になりますので、その記憶を明確に思い出すことはできません。

これは皆さんよくご存知のことと思います。

例えば、ある方が自分の記憶にないことを話し始めたとします。

それがすでに亡くなっていた方の情報で、調べてみたら実在の人物であったとします。
これは生まれ変わりでないかと考えます。

ところが、自分の記憶にないことを話すことが出来る技術もあります。

霊媒現象などと言うものです。

こうした技術で霊魂が人間を利用し、意念を伝えることも可能となります。
もちろん、人間の側も条件を満たしている必要があります。

亡くなったばかりの人、霊魂になりますが、そうした霊魂が簡単に使えるようなテクニックではないようですし、そのうえ霊魂は行くべき世界に入っているはずです。

ということは、霊媒現象を得意とする霊魂が情報を知り得て、話し出したということが考えられます。

亡くなったばかりの霊魂が霊媒を使い話し出すというのは、通常あり得ないことで、インチキ演技か、もしくはこうしたことが起きています。

すでに他界された方を誰でも呼び出すことなど至難の業なのです。
霊魂の存在を認めるという方には、人間と同じく様々な霊魂がいるということを知って頂きたいと思います。

ここで正邪善悪といった分け方をしてしまうと複雑になりますので、高低といった表現を使わせて頂きます。
また恐怖心をあおるだけでは意味がありませんので、対策についても触れようと思います。

霊魂の本来生活すべき世界は物質の世界ではありません。
あの世とか死後の世界といわれる所で別にあります。

この世は、肉体を有した霊魂、すなわち我々が住むべき世界といえます。

しかしながら、どうした訳か肉体を持たない霊魂がたくさんいるようです。
霊が見えた、聞こえたという人だけに限られたことではなく、姿が見えませんので人間は気が付かないだけで、あなたも幾度となく接触している可能性は十分あるのです。

高級霊と低級霊、これは霊的な尺度になのですが、霊的に成長した霊魂と未成熟、未発達な霊魂です。
大きな違いは、高級霊は人間の自由意思を尊重するのに対し、低級霊はおかまいなしなのです。

もし高級霊が人間の自由意思を無視すれば、一方的に幽気を送って勝手に引き上げることもできるかもしれません。
しかし、不幸になる権利も当然あり、人間のあらゆる自由を認めています。

高級霊にとっては、物質の薄汚れた世界は居心地も悪く、自らを汚してしまうこともあるかもしれません。
それでも人間の霊的進歩を願い人間に関心を向けてくれるのです。

低級霊というのは見えないのを好都合とばかり、好き勝手にしています。

イタズラや人間を苦しめたり、仲間に引き込もうと考えたり目的は様々です。
もちろん、悪意を持った霊魂ばかりでありません。
子孫を心配している霊魂もいることでしょう。

いずれにしても、霊魂に干渉されるなら高級霊であって欲しいと思います。
自分にとって都合の良いことが起きたり、霊能力が出たりするかもしれません。

しかし低級霊と二人三脚では、永遠と続くような次の人生が必然的に低い世界になってしまいます。
こうした霊魂は、霊的な身体が未熟です。人間が霊的に成長すると見えにくくなってしまいます。

高級霊が背後にいれば、怖くてイタズラも出来ないのです。
大きなリスクを伴うのであれば、別の人を探す方が得策です。

たとえ相手が見えない存在であっても、自分が霊的に成長すれば全く心配はいらないのです。

霊現象に悩まれていた方で真面目に霊的トレーニングを行うことにより、霊的な現象が無くなったという声も聞かれております。
霊的なトレーニングを語るうえで、霊的カルマというものは避けて通れません。

師の著書「霊魂学を知るために」に「カルマの問題は本格的に書くと優に数冊の書物が出来てしまう」とあります。
それだけ難しくとても複雑なものなのです。

タイトル「人生を変えられるのか?」で触れましたが、肉体とダブった幽体にも意識があり、過去何度も物質の世界に生まれた経験や記憶を有しています。

赤ちゃんであっても、すでに霊的カルマを持っており、それが成長するに従い人生に影響を与え、幸、不幸をつくって行くのです。

つまり霊的カルマを知ることにより将来が見えて来るのです。

ただし、あくまで要因であり変化する可能性も当然ありえるものなのです。

そのまま表現されれば運命とか宿命と呼ばれるのでしょうが、それは結果論であって回避できる可能性もあると理解して頂きたいと思います。

この霊的カルマの存在はすでに大昔の人は理解していて、さらに解消する手段も考えられていたのです。
それが現代に蘇った神伝禊法という霊的なトレーニングなのです。

神伝禊法は単に霊的カルマの解消だけにとどまらず、自分自身の高級な意識を引き出すこともできるたいへん奥深い体系なのです。
人間が霊魂であるならば、霊的な真実を探ることはとても大事なことではないかと感じます。

ところが残念なことに霊的分野においても商業主義に走り、大きく曲げられてしまっているのが現状ではないでしょうか。

もちろん、何をするにもお金が必要な社会ですので、綺麗ごとは言わないけれども、嘘や偽りがまかり通るような世の中であって欲しくはありません。

そのためには、多くの人が正しい認識を持つことが大切に思えます。

人々が霊的なことに対し、真面目に関心を持ち真実と向き合おうというのであれば、本物が存在感を増し偽者やインチキは姿を消して行くことでしょう。

霊的な現象も恐怖体験というお盆の風物詩ばかりではありません。

もっと知っておくべき霊的なことがたくさんあります。

お坊さんは、もともと弔いだけの役割やお墓の管理人ではなく、本来神社も、どこそこに○○のご利益があるとか無いとかではなく、いずれも本来は高い幽気が降りる環境が保たれ、そこに求める人達が集っていたのです。

確かに施設を維持していくためには、お金がかかります。

だからといって何も知らない人に対してのご機嫌取りばかりでは、人間の霊的な成長を阻害し後退させてしまうことにつながります。

黄門様の歌にもあるように、♪人生幽気が必要だ~。
霊能力はよく耳にしますが、霊力はあまり聞くことがないと思います。

霊力というと、霊能力と勘違いされる方もいらっしゃるでしょう。
霊能力とは、普通の人では出来ないようなことをする能力、技術のようなものだと考えて頂ければ良いと思います。

霊能力は特殊な能力なので、無くても全く構いません。

むしろ安易に求めることはとても危険です。
霊能力については別の機会に触れるとして、霊力とは、肉体で言えば体力のようなもので、動く力が少なければ、それだけ不自由になってしまいます。

霊力とは、人間が霊魂として、本来持つべき霊的な基礎体力のようなものです。
自分を霊的な進歩向上に向けて動かし得る力といえます。

こうした力はどなたにもつけて頂きたい力なのです。それは人間が霊的生命体であるからです。

タイトル「遺伝子」の中で小さな種が生まれていたと言いましたが、肉体が死を迎えるまでに、その小さな種をしっかり成長させることがとても大切なのです。

この世は肉体で生きています。

肉体の質や状態で人生は大きく左右されてしまいます。

死後は当然別の身体がなければ生き続けることは出来ません。
それが幽体という霊的身体です。

物質のこの世は幽体には悪い影響ばかりです。

発芽しても日陰育ち。
根も張らず栄養は少なく、葉は虫に食われてしまう。

このような状態で死後の世界に入らなければならないのです。

本来栄養となる強い日光に当たれば、すぐ枯れてしまいます。
そうなると死後暮らす世界は、日光がさえぎられたような場所に決まってしまいます。

今この物質の世界で生きている間に、幽体をしっかり育てることが大事なのです。
根もしっかり張って、茎も太く葉は虫が寄りづらくしておけば、準備オッケーということになります。

死後の世界においてどんどん成長することでしょう。
守護霊という用語は頻繁に使われています。

文字から考えると災いから守ってくれるといった印象があります。

馴染み深い言葉ですが、用い方、その定義もまちまちです。

本来は担当する人の霊的な成長を援助してくれる存在なのです。

先祖や故人といった自分の縁のある霊魂が守護霊になるという人もいます。

ところが地上を離れたばかりの霊魂では、役不足なのです。
霊魂学における守護霊はかなり高級な霊魂を指しています。

霊的に進歩向上を手助けするには、守護霊自身が霊的に成長していないと無理なのです。

ところが、守護霊レベルの霊魂になると、人間のことがよくわからないそうです。

霊的成長をとげている霊魂なので、どうしても担当する人間とは霊的距離が出来てしまうのです。

「じゃぁ、守護霊と人間は交流できないのだから、いてもしょうがないじゃないか!」と思われることでしょう。

もちろん、心配ご無用です。
補助霊と呼ばれる比較的人間の霊的レベルに近い霊魂が間をつないでくれるのです。

まずは、補助霊と仲良くなることです。

仲良くといっても、なあなあになることではありません。

対価など求めず援助してくださるのだから、当然、礼節は大切です。

高級霊にも救う自由もあるし見捨てる自由もあるのです。

ご自身が霊的成長を遂げることが出来れば、本物の守護霊と直接交流できるようになります。

補助霊に間を取り持って頂くかなくても守護霊とじかに意思疎通ができるようになれば、霊的に進歩したということにもなります。
最近では、DNAという言葉を良く耳にします。

様々な遺伝子情報がDNAという記憶媒体に記憶されているということです。
親子が似ているということもうなずけます。

ではなぜ、親子や兄弟であろうと異なる性格や個性が生まれるかといえば、更にさかのぼった先祖にあるといわれます。ということは、生まれ変わっているということでないでしょうか。

科学者に言わせれば、それは生まれ変わりではなく、DNAによる記憶が呼び起されただけで情報が伝わったに過ぎないと言うかもしれません。

「人間には潜在意識というものがあるような気がするが、只今どこにあるか研究中です」とおっしゃるのでしょう。

死後の世界や霊魂も生まれ変わりもなく、死イコール無であると。

宗教で言う生まれ変わりは、死という恐怖の克服と現実逃避によるなぐさめのようなものとお考えなのかもしれません。

もちろん、こうした意見もあくまで仮説であり、多くの学者さんがおりますので、様々な見解、見識をお持ちだと思います。

霊魂学での生まれ変わりは、DNAにあるのではなく幽体にあったのです。

過去の人生の経験や記憶が幽体に記憶されており、霊魂の一部が再生しているようです。

肉体形成が親から子に遺伝するかのように、霊的部分においてもたくさんの情報を有した小さな種が生まれていたのです。
2013.10.14
昔は、金縛りというと霊的な現象とされていたようですが、現代では医学的な研究により、金縛りは睡眠麻痺によって起るとされています。
意識は起きている状態であるのに体が眠っている状態の時に起こるようです。

僕もこうした体験は何度かあります。いずれも寝不足で体が疲れている時です。

激しい眠気に襲われ高速のPAに車を止め、眠りにつきました。
そして目が覚めフロントガラス越しに青空が見えるのですが、起きようと思っても全く体が動かないのです。
あきらめて、また眠ってしまいました。

またある時、自宅と引っ越し先の行き来を数日続け、寝不足と疲労がたまっていたのでしょう。

2階の床に寝ころび体を伸ばしていたら眠ってしまい、しばらくして目が覚めました。
その時も窓から空は見えているのです。

しかし、体は全然動かないのです。
自分の周りを何匹ものすずめが歩き回っているし、バスガイドのような人が階段を上って来るのです。

これは、よくテレビを付けたまま寝てしまい、テレビ番組のような夢を見たことがあるかと思います。

同じように小鳥が外で鳴き、女性の話し声が聞こえただけで、夢を見ている妄想状態で、変なバスガイドまでが人の家に上がりこんできたように思っていただけのようです。

しかし、こうしたケースではなく、霊的な現象を伴う金縛りもあるようなのです。

僕は経験がありませんが、もっと現実味があるようです。「幽霊はいない!?」で説明しましたが、霊魂が間気というものを利用すると起り得るのです。

今の世の中は、霊的な現象を否定しようとする傾向にあると感じます。

金縛りも生理現象として片づけられ、スプーン曲げも手品になってしまったし、幽霊も幻覚で心霊写真は合成、呪いは精神的な脅迫作用とされてしまうようです。

確かに、その多くはそうした理由で納得できるかもしれませんが、そうでないものの可能性を含めての科学が本当に科学ではないかと思います。

早計な学者さんがテレビで発言すると、多くの人は納得してしまいます。

霊的なものは物質ではありませんので、存在を証明することは非常に困難ですが、現実として、霊的なことが単なる思想や宗教に押し込まれてしまうのはとても残念に思います。


さらに参考となるページがありますので、リンクしておきます。
霊的情報館 霊をさぐる 「霊魂学 霊的な現象についての悩み」
このブログでは、さんざん霊魂を連呼しているくせに無責任なことを言うな。

と怒られてしまいそうですが、実は幽霊はいないのです。

最近では、幽霊ではなく「霊を見た」というように「霊」という呼び方が主流のようです。

人間は幽体の存在である霊魂は見えないようになっています。
もちろん、本当に幽体そのものを視覚できる幽視能力がある人もいるかもしれませんが、こうしたケースはごく稀であると思います。

多くの場合、それが錯覚でない霊現象とするなら、いたずらな霊魂そのものを見たのではなく、霊魂が作った「人の形をした作り物」を見たという表現が適切なのです。

詳しくはの著書である「霊魂学を知るために」を読んで頂きたいのですが、すでに廃盤となり入手できないようです。(劣化していても構わないというなら、数冊僕の手元にありますので定価+送料でお譲りします)

簡単に説明すれば、人間は肉体と幽体がダブっています。
それには肉体と幽体がくっ付いていなければなりません。

その接着剤的な役目をしているのが、霊魂学でいう間気と呼ばれるものです。
霊的な気でありながら、物質に作用できるのです。

西洋の心霊研究においてはエクトプラズムと呼び、心霊実験で霊媒の身体から外部に漏れたエクトプラズムを利用し、霊魂が人の顔を作り出す。

このような現象が写真撮影されたようです。

写真の信憑性については責任が持てませんが、幽霊現象のメカニズムはこうしたものです。

この間気をいたずらな霊魂が利用することにより、人間に霊的な物理現象を起こすことが可能なのです。

物を動かしたり、音も出せるようです。

このような現象でお悩みの方は「霊魂学を知るために」をぜひ読んで頂きたいと思います。
対処法も書かれております。

いたずらな霊魂は、間気が漏れている方を見ると、じっとしていられないようです。

ズボンの後ろポケットから長財布が顔を出していると、スリに目をつけられます。
同様なことが起きています。

対策としては、お財布を見えないようにすれば良いのです。
それでいいんです。

本来、見えないものが見えたり、聞こえるはずのないものが聞こえるのは異常です。
霊的な力とは、肉体の健康や肉体を正常に機能させる力でもあるのです。

確かに霊能力を持った人もいます。
本物の霊能力というのは、それ相応の努力や苦難を経て得られたものです。

高級な霊魂と通じ合う訓練、正しい霊的なトレーニングの積み重ねがあって発揮されます。

このブログでは、信仰心の必要性を偉そうに語っていますが、実は僕も不真面目な部類だったでしょう。
宗教など全く興味がありませんでした。

今思えば勉強嫌いのようなもので、難しいことの押し付けを頭だけで理解するのではなく、実体験を通して自分のものにしたかったように思えます。

子供の頃から霊にまつわる怖い話や、いわゆる幽霊は存在すると思っていたし、亡くなったおじいさんもおばあさんも霊魂になっていると考えていました。

つまり霊魂の存在を信じるのであれば、様々な霊魂もたくさんいて、いちばん霊的レベルの高い霊魂がいても不思議ではないですよね。
僕はそうした存在を理解できれば良いと思っています。

難しい神様や仏様の名前など所詮人間が勝手に呼んでいるだけで、話を難しくして高貴な霊的存在を遠ざけてしまっているような気がします。

また、神の名を借りての売名行為や、自分に都合の良い神を語ることで、品格を落としてしまっているのかもしれません。

ただそれは、人の考える神や仏であって本来の高貴な霊的存在とは無関係に思えます。

自分にとっての高貴な存在を信じ、少しでも近づくことが出来ればそれが霊的成長であると感じます。
霊的トレーニングは誰でも出来るかと聞かれれば、誰でも出来ます。

しかし、誰にでも効果が出るかといえば、そうでもありません。

作法、動作自体は決して難しいものではなく、誰でも行えると思いますが、前提が出来てはじめて力となります。

作法や動作は蛇口をひねる行為であって、水道管につながっていなければ水は出てきません。

その水は高貴な存在からの流れです。
流すに相応しいと認められることが必要です。
それが信仰心や熱意、謙虚に学ぶ姿勢などです。

薬品も薬効があるものほど、医師の処方箋が必要です。
それは患者さんの治癒や副作用を最優先に考えるのであって、裏で平気で流している人がいたら、善意ではなく金儲けを優先させているのです。

霊的な分野は見えないだけに怖い世界です。

見よう見まねで瞑想やトレーニング法を行い、悪意を持つ霊魂に目をつけられたら大変です。
それこそ悪い方向に人生を変えてしまいます。

契山館で指導する霊的トレーニングは、各種研修を修了したのち、家庭でも行えるようになります。
霊魂の家庭教師が来てくれることで力となり、危険からも守ってくれるのです。
「人生を変える」などというと、心理学的な潜在意識の活用とか心の転換などを想像する方も多いと思います。

人間は、肉体的にみれば親の遺伝を受け継いで生まれて来るのですが、霊的には幽体というものがあります。
これが人間を複雑にしているのです。

幽体の意識には、いく度となく地上に生まれた様々な経験や記憶が眠っています。
こうした意識が人生を共に歩んでいると考えて頂ければ良いと思います。

もちろん良い部分も当然あるでしょうが、人類の歴史を振り返れば分かるように、争いや差別が絶えたことはありません。
強い側にいたり、弱い立場だったかもしれません。
男女によっても異なるでしょう。

こうした記憶が物事に直面した時、思考や選択、行動に強い影響力を持ってしまうのです。

もともと、長い魂の歴史の中で強い印象として残っているものですから、激しい感情を持っていると容易に想像がつくと思います。

本来何事も理性的な判断、行動を心がけるべきなのですが、強い感情に動かされ衝動的となってしまうのです。

こうした深い意識を否定しようとも、やはり幽体の意識も自分であるし、社会や他人のせいにしたところで、苦しいのは自分自身です。

幽体の意識は、ひとりひとり個性が違うように持っているものが異なります。
いくら表面的な心の転換を唱えても簡単に対処できるものではありません。

ある人にとっては何でもないことであっても、別の人では、そうし難いものを有していたりします。
自分を押さえつけ、ストレスをためてばかりでは何の解決にもなっていません。

人生において、大きな間違いや失敗を犯すであろう心情があるなら、事前に改善すれば人生が変化し霊的な意味での成長にもつながるのです。
人間には、肉体とダブった幽体と呼んでいる霊的な身体があります。

肉体と同様、ケガや病気のように好不調や不具合も起きたりするのです。

霊的な障害というと、霊魂のたたりや悪い霊魂がついているとか、霊魂の影響だけを考えがちです。

確かに、中にはそうした人もいるでしょうが、人間に人間関係があるように、それは霊魂関係であって、幽体の質であるとか、状態とは異なっています。

もちろん、霊的な悪い作用があれば、結果として幽体にも影響してきます。

この幽体も、人の発した念によってケガを負ったような状態になったり、幽体内の幽気の状態が不調の方もいます。
肉体に例えると、血液が薄ければ貧血ですし、流れが悪ければ血行不良、体力がなければ抵抗力や免疫力が低下してしまいます。

霊的な状態は、肉体への影響も見逃せません。

霊的不調が起因し、結果として肉体の病気につながる場合もあります。
これも原因不明の不治の病というものではなく、明らかに通常の病名がつく病気であっても、霊的不調や障害が原因で、時間をかけて肉体の病気に現れたりします。

また、肉体と幽体を結びつける霊的な気、霊魂学では間気と呼んでおりますが、間気が不足したりすると、肉体と幽体がずれやすくなり、ケガやいたずらな霊魂に侵入されてしまうことにもつながります。

幽体が健全であることで、肉体にも好影響を及ぼします。

ヨーガや仙道も本来、霊的なトレーニングの体系です。
肉体のみ着目するのでなく、霊的な身体を含めての健全や成長あって欲しいと思います。
霊魂は肉体がありませんので、人間や物質を見ることが出来ません。

それでも肉体を持つ人間にも幽体があり、そこから発するオーラ幽気がわかります。

また、霊魂同士であっても霊的な隔たりがあると、なかなか通じ合うことが出来ないようです。

最近は、あの芸能人はオーラが強いとか弱いとか、存在感や目ヂカラを指すようなのですが、ここで取り上げるオーラは幽体から発する人間には見えない霊的な光やエネルギーのようなものです。

例えば、電球は汚れていると本来の光を放ちにくくなります。
幽体も様々な要因で、オーラが弱かったり出ていないと、高級霊にとっては視覚しにくくなり、反対の低い霊魂の目に止まりやすくなります。

霊的な技術に祓いや治療というのがあります。

汚れた電球を掃除して本来の輝きを取り戻すようなもので、幽体に付着した汚れた幽気を除去したり、損傷を修復して本来のオーラを発することが出来ます。

霊的トレーニングとは、さらに高度になります。

それは幽体そのものを変えてしまうからです。電球そのもの強くしてしまうのです。以前は40ワットだったものが、霊的トレーニングで100ワット、200ワットになることもできます。

霊的トレーニングを行うにあたり、動作、作法が大切なのです。

霊魂には人間同士のような交流は出来ません。
そこで肉体とダブった幽体に動きがあるとオーラが変化します。

霊的トレーニングは高級霊に、しっかりとした霊的な信号を発していないと力を持たないといえます。
霊的なトレーニングに不可欠な高級な幽気
それは自分で求めなければ得られないと言いましたが、ただ単に瞑目しても、それは絵に描いた餅でしかありません。

そこで、高い幽気を引きつける工夫が必要なのです。

高級な霊魂には、霊的な質の違いから人間の様子がよくわからないのです。
そこで高級霊にわかる目印をつくるのです。

物質は霊魂に見えませんので、昔から山や石、樹木や鏡など相応しい物品に霊的な力を持たせ、そこに降りる高い気を得ていたようです。

神社などでは、ご神体、神器を使い、霊的なトレーニングを積み強くオーラを発している人が中心となり、そこに人々が集い幽体に良い栄養を得ることが出来たようです。

契山館でもこうした霊的集会を行っています。

では、家庭で行う場合は、どうしたら良いでしょうか。

ただ祈っても瞑想しても力が小さい。
そこで家庭教師を頼み、幽体の栄養となる高い幽気を宅配してもらうのです。

もうお分かりかと思いますが、なぜ信仰心が必要なのかといえば、自分が未熟であることを自覚し、高貴な存在に援助を求めるのですから、当然のことといえます。
霊的なトレーニングに欠くことができないもの。それは霊的な気です。

霊的な気は物質でないため、その実体を理解している方は非常に少ないように感じます。

霊的な気の中で、いちばん身近な幽気についてお話したいと思います。

幽質の世界にある気を幽気と呼んでいます。
私達が住んでいる物質の世界も幽質界の一部です。ここにも幽気は存在しています。

同じく人間が死後生活する世界にも幽気があります。

また、人間の肉体とダブっている幽体内にも幽気があります。

肉体が死を迎えると、今度は幽体で活動することになります。

さて、昔から死後の世界は天国と地獄があって、良いことをすると天国に行き、悪いことをすると地獄に落ちると言われています。

となると、死後の世界は善悪で成り立っていることになります。
ところが、地上における善悪という観念と異なった法則が、死後の世界にあるようなのです。

幽界の上の方では、幽体の質も高く高級な気があふれているのに対し、下の方では幽体の質も低く、それなりの幽気しかありません。

もちろん高い世界と低い世界、そこで生活している霊魂の心や意識の違いも当然あるでしょうが、決定的な違いは、幽体および環境に大きな差があったのです。

そこで私達は死後どこに行くのでしょう。

それは霊的な法則に従い自分の幽体が馴染みやすい、その質に相応しい世界に入るのです。

今、幽体を成長させるかしないかで、死後の人生を大きく左右させてしまうのです。
霊的トレーニングによって、幽体の質を向上させるためには、その栄養となる高い幽気が必要なのです。

ところが残念なことに、地上のある幽気もそれなりの質でしかなく、高級な幽気が自然と入ってくるわけでありません。
ご自身が求めない限り得ることが難しい、そうした気なのです。
プロフィール

イクラマン

Author:イクラマン
「契山館」という小さな会で昭和63年から霊魂学、霊的修行法を学んでおります。
このブログの内容は、修行中の未熟な会員によるものです。未熟さゆえの間違いや解釈も含まれますので、どうかご理解下さい。

◆不許無断複写転載◆



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